歴史

延暦24年(805年)伝教大師の開基から1200年以上の年月が経過。
神戸の民衆に支えられ、戦争、火事、地震など様々な困難を乗り越え、
灯火を御守りしております。
 

夜明け

今から1200年前の平安時代、奈良朝の政教一致の国策から奈良佛教はその全盛時代を誇っていたが、弓削道鏡の事件にも見られるように佛教は時の権力の擁護のもとに佛教本来の衆生済度を忘れ、党派を組み、門閥を作り、その弊害は次第に甚だしいものになっていった。
桓武天皇が都を平安京に遷したのもこの弊を一掃しようとする英断であった。
東大寺戒壇院で受戒した最澄傳教大師は(延暦4年、785)このような状況下に於いて真に民衆のための佛教を興すべく奈良を去り、比叡山に入山。
やがて大師に深く帰依されていた桓武帝の勅命を受けて唐の国に渡り、智者大師智顗(延暦24年、805)、円密禅戒融合の日本独特の教学を立てて比叡山に日本天台宗を開創し、桓武天皇の勅許によって公認された(延暦25年、806)。
最澄傳教大師の大乗戒壇設置の目的は、奈良佛教の強烈な弾圧を受けたにもかかわらず、国家の守護安泰と衆生の利益という徹底した民主教学の樹立であり、その熱意の猛烈果敢であったことは奈良佛教に対する批判論述「顕戒論」によく現れている。
大師の思想の根底には人間はことごとく佛性を具え、万民衆生すべて平等である、という民主主義の根本が明確に示されている。
「山家学生式」の冒頭に「一隅を照らす事の出来る人、これが真の国宝である。」と直言し、金銀財宝が国の宝ではない、僧は社会の一隅を明るく照らす光明たれと述べ、大師自ら実践された。
このような厳しい大師の教学の下から慈覚大師円仁和尚(天台第3世座主)、源信上人(日本浄土教始祖)、良忍上人〔融通念佛宗)、法然上人(浄土宗)、栄西禅師(臨済宗)、親鸞上人(浄土真宗)、道元禅師(曹洞宗)、日蓮上人(日蓮宗)等諸宗の卓越した開祖を輩出するに至った。
このように現存する諸宗がほとんど比叡山の天台を源流としている事実は 最澄傳教大師をして日本佛教の父、比叡山を日本佛教の母山といわれて各宗から崇敬される所以である。
神護景雲元年(767)近江坂本に御生誕。先祖は後漢・孝献帝。 弘仁13年(822)比叡山にて56歳を以て御入寂。
貞観8年(866)清和天皇より傳教大師の諡号を賜った。
これは我国に於ける大師号宣下の最初である。

開山 最澄傳教大師

能福寺の歴史概略

今から一千二百年の昔、延暦23年(804年)桓武天皇の勅命を受けて唐の国(中国)に留学された傅教大師最澄上人は、その帰途兵庫の大輪田の泊(現・兵庫港)に上陸された。
当時の庶民は大いに喜んで大師を歓待し、堂宇を建立して佛教の教えを請うたところ、大師は薬師如来の御利益をお説きになって、御自作の像を御堂に安置し、国の安泰、庶民の幸福を祈願して自ら能福護国密寺と称された。
時まさに延暦24年(805年)6月。即ち傅教大師の我が国最初の教化霊場である。

平清盛公福原遷都の時(治承4年、1180年)信仰心の篤い平家一族は能福寺に帰依し、小川忠快法印(平清盛の甥、即ち平教盛の息)は七堂伽藍を建立完備して大いに隆盛し、福原五山の筆頭にして兵庫随一の勢力を誇ったところから、通称「福原寺」(兵庫即ち福原京を代表する寺の意)と呼ばれた。又、一説には能福寺の壮大な外観から「八棟寺」(八棟の巨大な伽藍を有する寺)とも称されたと伝えられる。
この忠快法印をして能福寺の中興とする。(文治2年、1186年)

日本の古い歴史書、本朝編年集によると 「仁安3年(1168年)11月、平清盛於能福寺剃髪入道ス(注・法名を平相国浄海と称す)。
養和元年(1181年)2月4日西八條二於テ薨去、年64。
翌日火葬トシ、圓實法眼全骨ヲ福原二持チ来リ能福寺ノ東北二埋ム。」(平相国廟、別項参照)とあり、そもそも圓實法眼が清盛公の遺骨を福原に持ち帰り能福寺に埋葬したのは清盛公の遺言に因るものである。
清盛公が如何ほど師圓實法眼を信頼尊敬し福原兵庫の地を愛したか、その一端が伺われる。 現在、能福寺の南方三丁の処に清盛塚(県指定史跡・重要文化財)がある。

摂州八部郡福原庄兵庫津絵図
 元禄9年(1696年)提供:神戸市立博物館

平家滅亡後、暦応4年(1341年)兵火により全焼(一説には震災)。
慶長4年(1599年)明智光秀公の臣、長盛法印が諸堂を再建復興した。
長盛法印は兵庫の富豪、武臣大官南條家の出身で幼年の頃より佛門に帰依し比叡山で修学した。
元亀年間織田信長の乱を避けて兵庫に帰り、能福寺の住職となった。
この長盛法印を能福寺の再興とする。
この代に於いて前記の南條家が、清盛公花見の岡の御所(宝積ヶ岡、源平盛衰記載)の旧跡を能福寺に寄進したのが現今の境内地である。
それ以前の能福寺は現在地の西方須佐野にあり、兵庫の古地図には「本能福寺」「元能福寺跡」等の地名が記されている。

明治24年5月、兵庫の豪商南條荘兵衛は当時風靡しつつあったキリスト教に対抗するため、大佛建立を発願し、第19世住職慈晃と謀って、身丈三丈八尺、重量三千貫の青銅毘盧舎那佛を建立、「兵庫の大佛さん」としてその名を海外にまで知らしめたが、昭和19年5月、太平洋戦争の金属回収令に依り供出を余儀なくされた。
翌20年3月、神戸大空襲に依り境内建造物は鐘楼を除き全焼、千手観音をはじめ古佛像、古俳画、古文書類及び古版経典類等多数が灰塵に帰した。

第24世住職弘善は、昭和29年に本堂を再建復興、同50年傅教大師得度1200年を記念して講堂を建設した。

尚、本堂復興に際して、播州明石(現・神戸西区)の古刹太山寺より弥陀三尊佛をお迎えし、御前立として安置した。
この阿弥陀如来像は市内でも有数の佛像である。

1991年5月9日 第25世住職世雄は兵庫大佛を再建。
開眼法要には奈良から筒井寛秀東大寺別当、鎌倉から高徳院佐藤密雄貫主がお見えになり日本三大仏の再建を祝された。

1995年 1月 阪神大震災で被災。本堂全壊。 鐘楼堂倒壊。
1997年12月 第25世住職世雄は本堂を復興。
2016年12月 第26世住職雄善は當勝稲荷堂を再建。


第25世 世雄 (平成17年5月)
第26世 雄善 (平成28年12月)加筆

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